進藤純孝『ふり向けば独りきり』(光人社、1993.3)を読んだ。
第三の新人の同志たちとの交友も、彼らと併走してきた数十年の歳月も、文学論や小説家の評伝めいた記述も、ここにはほとんど含まれていない。最愛の妻を亡くした進藤は、何をしても妻のことを、妻との日々を、その不在を思ってしまう。だからそのことを書く。心のうつろいが、衒いのない言葉で書きつけられる。本書の著者は、もはや文芸批評家ではない。一巻を通じて、妻を亡くしたおじいちゃんが、ただ茫然としている。
数ページごとに日付が挿入されている。その意図は、本書も後半になってからようやく明かされる。きっとそれまでは、読者のことを考える余裕すらなかったのだろう。「日々、美登里を思うことで、二枚でも三枚でも原稿を書くなら、それはそれで供養にもなろう。そうならば、この二百何十日かの自身をふり返り、そして今の呼吸を測り、その上で行く末を思う日録を書いてみようと、筆を執った」。日々妻を思い、日々書く。そうすることで、妻との時間が、妻の死後も延長される。しかしその甘やかな追憶は、必ず妻の死に行き着いてしまう。著者は茫然とし、また翌日、妻の記憶をつづりはじめる。本書はそのようにして書かれた。これは言葉で築かれた墓碑だ。
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