「ひまじゃないですよ。このあいだ買った五千ピースのジグソーパズルは、まだ半分もできてないし、『大菩薩峠』も読みかけ、近所ののらねこのノミ取りも、まだぜんぶおわってないんです」と名探偵は言った。それを聞いて語り手が述懐する。「世間ではそういうのを、ひまな状態っていうんだけど」。はやみねかおる『亡霊は夜歩く』の一節だ。私は小学生だった。『大菩薩峠』──ルビが振られていたから読みかたはわかったし、〈峠〉の意味も知っていたから、それが地名ということは理解できたが、魔王のいる城を〈魔王城〉と呼ぶように、〈大菩薩〉という存在が統べる峠なのだ、くらいに思った気がする──というタイトルの、どうもやたらと長い本があるらしい、と、そのとき知ったのだった。
読みはじめるまでに二十年あまりが過ぎていた。その間に、それは中里介山という人が大正から昭和にかけて書き、しかし未完のままに終わった小説なのだ、ということを知った(しかし私は実際に本を手に取るまで、大佛次郎が著者だと勘違いしていた)。
この小説「大菩薩峠」全篇の主意とする処は、人間界の諸相を曲尽して、大乗遊戯の境に参入するカルマ曼荼羅の面影を大凡下の筆にうつし見んとするにあり。この着想前古に無きものなれば、その画面絶後の輪郭を要すること是非無かるべきなり。読者、一染の好憎に執し給うこと勿れ。至嘱。 著者謹言
中里介山『大菩薩峠』第一巻を開くと、本篇がはじまる前にこう掲げられている。曼荼羅ではだいたい中央に主尊が、その周囲に複数の仏が配置されている。本巻の中心にいるのは机竜之助だ。〈音無しの構え〉を駆使する剣士である竜之助は、しかし、どうにも共感の難しい非道な人間として登場する。彼は(作中ではその名前も示されないうちに)、孫を連れて旅をする巡礼の老人を、何の理由もなく斬り殺す。そのあとも、剣術試合の対戦相手の妻を攫ってレイプしたり、行く先々で喧嘩をふっかけたり、武士の魂であるはずの刀を饅頭代がわりに差し出したりする。ダークヒーロー、と呼べるほどの勁つよさもない、腕っぷしに恃んだ粗暴の権化。反感を抱くたびに、〈一染の好憎に執し給うこと勿れ〉という著者の言葉が頭を過ぎる。
そうはいっても、『大菩薩峠』は小説であって、それぞれの性格と思惑をもった無数の登場人物たちの行動とその顛末が描かれている。長大なテキストを読みながら、そのいちいちに好悪の感情が湧いてくる。それはおそらく意図されたことでもある。というのは、三人称視点で描かれる本作のナレーターが、かなり主観の混じった──価値判断をふくんだ語りをしているからだ。追い剥ぎの出る青梅街道を与八が未明に一人で歩く場面を描写して、語り手はこう続ける。「それにしても大胆な。馬子でも思慮のあるものは今時分ここを一人歩きはしないものを。それもそのはず、この若い馬子をよく見れば、かの万年橋の下の水車小屋の番人、馬鹿の与八ですもの。馬鹿ですから怖いもの知らずです。」あるいは、虚無僧に扮した竜之助が、自分を馬鹿にしてきた武士の集団に、竹刀を貸してほしいと頼み、「虚無僧が竹刀を持って何をする」「お前の頭を打ってみたい」と喧嘩を売る場面を描いてこう続ける。「ああいけない、こんなことを言い出さねばよかった。ここで堪忍したところが竜之助の器量が下るわけでもあるまい、またこの人々相手に腕立てをしてみたところで、その器量が上るわけでもあるまいに。」懸河の弁とでもいうのか、釈台を叩く張り扇の音が聞こえるほどに饒舌だ。
小説を読むのには時間がかかる。『大菩薩峠』ほどの長さであれば、すべての文字を目で追うだけでも骨が折れる。それだけの時間を費やさせるためには、そこで書かれている内容に読者の関心を惹きつけ(つづけ)る必要があり、そのために、こうして登場人物への好悪の感情を喚起するのは効果的だ。巻頭言でも、そういった感情を抱くことそれ自体は否定されていない。戒められているのは、いっときの感情に執着することだ。
私は本巻を、一ヶ月ほどの時間をかけて読んだ。もちろんその間絶え間なく読んでいたわけではなく、一日の大半は生活をして、一時間弱、この分厚い本を開いていた。私が読んだ筑摩書房版は全十巻で、私はこれから十ヶ月ほどを竜之助やお君、米友たちの姿を追いかける。『大菩薩峠』や『失われた時を求めて』のような過剰なほどに長い小説を読むのは、登場人物たちの身に起きたできごとを覗くのではなく、彼らとともに人生の一部を過ごすことだ。同僚や友人、あるいは家族、長く過ごせば過ごすほど、その人の良い面も悪い面も目の当たりにすることになる。人の印象はその感触が積み重なってかたちづくられるものだが、かといって、その時々の好悪でその人の全体を評価しては、長期的な感情を築くことはできない。
竜之助にレイプされたお浜は、夫ではない男に身体を許した、と離縁され、その夫も竜之助に殺される。その恨みは竜之助を殺しても足りないほどに強いもののはずだ。しかし、彼女は竜之助のもとに現れ、故郷に居場所を失った者同士、「逃げて二人は生きましょう」と彼の胸にすがりつく。二人は江戸で夫婦になって、子供ももうける。「悪縁に結ばれた夫婦の仲は濃い酒を絶えず飲みつづけているようなもので、飲んでいる間はおたがいに酔の中に解け合ってしまいますけれども、それが醒めかけた時はおたがいの胸にたまらないほどの味気なさが湧いて来ます。」と語り手はいう。出会いから四年、やがて疑心暗鬼に陥った竜之助に殺されるまでの、きっと穏やかではない、お互いに悪感情のほうが多かったかもしれない二人の日々。本巻のなかでその日々が描かれることはない。本巻の百五ページ、『大菩薩峠』全体のわずか二パーセントほどの段階で死んだお浜は、きっとこの大長篇のなかでは端役に過ぎないが、〈一染の好憎に執し給うこと勿れ〉という著者の言葉に最も忠実な晩年を過ごしたといえるのではないか。
竜之助のあやつる〈音無しの構え〉について、語り手はこう説明する。「竹刀にあれ木剣にあれ、一足一刀の青眼に構えたまま、我が刀に相手の刀をちっとも触らせず、二寸三寸と離れて、敵の出る頭、出る頭を、或いは打ち、或いは突く」。小説とは、文字が並んだ紙を束ねた本のことではなく、語り手と読み手の間に生起する関係性のことだ。その関係性は、対峙する二人の剣士の間に走る緊張とよく似ている。本巻のなかだけでも、東は江戸から西は大阪まで、徒歩が主要な移動手段であった江戸時代としてはきわめて広い範囲を舞台に物語が展開した。作中では四年あまり、それを読む私には一ヶ月ほどが過ぎていた。そこでは多くの出会いと別れ、道行きと死が描かれていた。そのひとつひとつをじっくりと書くために、本巻の五百ページではあまりに短い。私たちは、じっくり腰を据えて思索しようにも、語り手の振るう張り扇に急かされて、目まぐるしく展開していく物語を読み進めていく。その性急さは、打ち合うことすら許さない剣戟の速度ということなのかもしれない。
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