座談会からすでに三ヶ月以上が過ぎ、掲載された雑誌もすでに次号が出ていて、これだけ時間をおいて振り返ると、五人でテーブルを囲んだ日の記憶のほとんどは、原稿やゲラのできストで補完されたものばかりだ。『すべてがFになる』も、戯言シリーズのどれかの巻も『意外性の宇宙』も、事件やトリックや取り上げる事象より、それを描き出すためのディテールやフレーズばかりが目につき、読んでからずっと経ったいまも記憶にとどまっているのだが、極言すれば小説(や科学の入門書)なんてすべてのテキストが読者へのパフォーマンスなのだから、きっとそんな細部を気にするべきではない。といいつつ私は、あの、それなりに楽しく、終わった直後は得るものの多い有意義な時間だったと振り返っていた座談会のことを、十年後まで小説家として生き残ってから思い出すとききっと、君島さんの武装としてのジャージ姿とか、実際は見なかった林原さんの般若みたいな表情とか、バランスを整えよう、と必ずしも本心ではないことを口走ったこときの心持ちのことを思い出すのだろう。
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