私は壁にちかづき、耳を当てる。ライターに点火する音がかすかに聞こえ、それさえ聞こえれば、吹き出したガスが燃える音、煙草の先端にそっと火がうつる音、それをゆっくり吸いこみ肺にため、やがて吐き出す息づかいまで聞こえる気がする。じっさいにはそんな、屋外のベランダで立てる音が壁を隔てた私まで届くはずもなく、すべては幻聴で、壁に耳をくっつけて一人にやついているだけだ。それでも、彼女が仕事の前に、煙草を吸いながら、私が淹れたコーヒーをベランダで飲むのが好きだと私は──私が買い物袋を片づけると彼女が知っていたように──知っている。自分がそうやって彼女のルーティンにくみこまれていることをうれしく思う。ふつうよりも細かく挽いた、苦みのつよいこの味が、私も私の恋人も好きで、舌が、とりわけコーヒーにかんする嗜好があうのは幸せなことだ。一度立ち上がり、机の上のコーヒーを取ってまたベッドに戻り、壁に耳を当てる。私たちはきっとこうして一生、コーヒーを飲み続ける。壁をへだてた先で彼女が、私の淹れたコーヒーを美味しいと感じている。それは、私たちがいっしょにいるかぎり、永遠に変わらないことだ。恋人の立てるかすかな音をさぐりながら、壁の向こうとこちらで同時にコーヒーを啜ろう──と耳をそばだてたところで引き戸が閉まった。彼女が戻ってきたのだ。その必要もないのに慌ててベッドから飛び起き、なんとかコーヒーはこぼさず床に降りて、机に戻った。
いったい何の作業をするつもりなのだったか。
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