郷里でも、七年間の学部生時代を過ごした北の街でも、クリスマスと大晦日の間は雪だ。冬はつるつるの道をよちよち小股で歩くもので、千鳥足なんてやってる余裕はない。今年流行ったアニソンが、通りがかった飲み屋の、歩道に少し張り出して、透明なフィルムで防寒された中から聞こえ、それがすぐ誰かの、悲鳴みたいな笑い声にかき消される。やあ、陽気だねえ、とルールーが気圧されたようにつぶやいた。
わたしたちも元気出してこ。リンが意気込んだことを言う。
しかし、周囲がうるさいと私たちは自然と静かになって、隣を歩く人と小声で喋るのがせいぜいだ。私が恋人と話していると、うしろを一人で歩いている林原さんが歌いはじめた。
この街でおれ以外
きみのかわいさを知らない
今のところおれ以外
きみのかわいさを知らない、はず
大宮サンセット
きみはなぜ 悲しい目で微笑む
大宮サンセット
手をつないで 歩く土曜日
私と恋人はなんとなく黙って歌に耳を傾ける。そのうち駅前の開けたところに出た。ロータリーらしいアスファルトの円弧だが、入口に黄色い仕切りがあって、歩行者天国みたいになっている。林原さんがワンコーラス歌ううちに、それぞれの会話が自然に収まっていく。聴かれてるのを意識したのか、声に妙な力が入って、音を外して終わった。
スピッツだ。私は振り返って言った。
あ、そうだよ。リョウくんよく知ってるね。シングルでもないのに。
中学の、ちょうどその曲のアルバムのころよく聴いてて──、とまで言って、私は不意に思い出す。そうだ!
わ、なに。恋人が驚いてこちらを見て、みんな思わず立ち止まる。
スピッツの歌詞、ほとんどヴォーカルの草野マサムネが書いてるんだけどさ。いったい何の話だ、とみんな呆気にとられているが、おかまいなしで続ける。草野のインタビューのなかで、私が憶えている二つだけのエピソードの片方を、そういえば私は、もう十年ちかく交際している恋人にまだ話していなかった、と不意に思い出したのだ。でも草野マサムネは字がきたなすぎて、なんかの曲の歌詞の、〈モチーフ〉っていう単語をスタッフが読みちがえて、草野さん〈モチーつ〉ってなんですか、って言われたんだって。
へぇ。心底興味なさそうに宇野原さんが言った。
それは「コスモス」の歌詞のことだね、と林原さんが補足してくれる。わたしも読んだよそのインタビュー。
よく憶えてるねユイちゃん、とベラさんが目を丸くする。
あ、じゃあわたしもマサムネ豆知識ね!とリンが手を上げ、高いところで手袋を嵌めた指をすりあわせながら続ける。草野さんは、ビニール袋のくっついたのを開けるとき、指をなめたりするんじゃなくて、手汗手汗手汗、って唱えて汗を出します。
なんやそら、とミツカくんがマスクをへこませて笑った。
そのラジオわたしもリアルタイムで聴いてたよ、とまた林原さんが頷き、でも唱えるのはファン、と律儀に訂正した。草野さんはメールを読み上げただけで、おれもやってみよ!とは言ってたけど。
その知識量はなんなの。ルールーが感心して笑い、宇野原さんが、ほならマサムネがいま唱えとるんは同じやな!と強引にまとめた。手汗手汗手汗、と繰り返して、おっほう、ほんまや!とベラさんの手を握り、うわ何、と本気で嫌がられている。手汗手汗手汗、と恋人が口のなかで唱えているのが聞こえて横目で見ると目が合って、握られるのか、とちょっと期待したのだが、彼女は自分で、祈るように両手を組んだ。手汗手汗手汗、と九人の大人が唱えながら夜の駅の構内に乗り込んでいくのはいかにも異様で、行き交う酔っぱらいですら私たちを遠巻きにしてすれ違い、たしかにだんだん手汗が出てきた気がするが、それは単に恥ずかしいからなのではないか。今日は私たち全員が揃った六年ぶりの機会なのに、締めが手汗でいいのか。きっと私は今日のことを、今後も仔細に憶え続けるのだろう。江ノ島の記憶と同様に、草野マサムネの、けっきょくやってるのかやってないのかわからずじまいの手汗も出しかたも、私はずっと忘れられない。
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