私は、小説を高校一年のときに書きはじめた。友人が同人誌を立ちあげることになり、短歌、漫画、映画評、アニメレビュー、詩、ひととおりのジャンルの担当者をそろえたところで、そういや小説がいない、と気づき、仲のよいうちでわりと小説を読んでいた私に白羽の矢を立てたのだった。私はたしかに小説を読むのが好きで、たぶん彼は私が小三のころ、図書室で借りた『ヤング・インディ・ジョーンズ』のシリーズを、一日に三冊くらいのペースで、何周もくりかえし読んでいたのを憶えていたのだろう。小三の秋の一ヶ月くらい私たちは席が隣で、授業中なのになに読んどるん、と囁いてきた彼に、私は返事もせず、机のなかに入っていたべつの巻を差し出し、彼も口をつぐんで受け取って読みはじめ、二人並んで本を読んでればさすがに先生も気づかないふりはできず二人して叱られたりもした。
中学生くらいまで、私は同じ本をくり返し読む習性があった。『ヤング・インディ・ジョーンズ』の次は真保裕一『ホワイトアウト』で、それも授業中に、しかし『ホワイトアウト』はシリーズものではないから、同じ本を延々と読んだ。それはなにか、名作を深くじっくり味わう、復読をかさねることで作品の奥へ奥へとわけ入っていく、というようなことではなく、単に作中で何が起きるか知ってるから疲れない、というくらいの理由で、だから私はテレビゲームとかも、同じものを複数のハードで買って、十回も二十回も遊ぶ。私はFF Ⅸに出てくる敵も、適切な選択肢も、ボスの弱点や盗めるアイテムまで暗記していて、万に一つも負けることなく世界を救う。読書もそれと同じで、つまり、そこにあると知っていることを確認するために読んでいたようなものだった。
だから、というべきか、私は、自分が新しく何かを書く、という発想がまるでなかった。パンが好きで、でもパンはパン屋で買ったりするもので、自分で焼きうるものだとはなぜか思いつかなかったのだ。両津勘吉が漫画を読みながら、こんなのチマチマ描いてるやつがいるのか、おれはてっきり、なんかこうスタンプをぽんぽん捺したらかんたんにできるもんだと思ってた、というようなことを言っていて、私はたぶん小説について同じように考えていた。人が、自分が小説を書けるのだと、私は知らなかったのだ。それだけに、小説書いてみんか、という友人の言葉は私にとって衝撃的で、なにかツールを与えられたような感覚があり、それから二十年ちかく私はこうして書きつづけている。
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