考えてみれば小説というのは変なもので、作者が一年間、毎日朝から晩まで丹精凝らして書いた文章を、読者はほんの数時間で読みおおせられる。それはすごく不均衡なことだ。書くことと読むことは、行為の質がまったくちがうのだから、かかる時間が違うのも当然のことではあるのだが、同じ文章を間にして、作者と読者に流れる時間がこれほどまでに食い違っていることへの違和感は、自分が読み手と書き手の両方に立つようになって、無視できないほど大きくなった。
それは私が、つねに行きつ戻りつしながら書く書き手だから、よけいにそう感じるのかもしれない。もちろん今書いている場面、それをいくつかに分割したパラグラフ、それを構成する個々の文、そして単語、に意識はフォーカスしているが、その単語は、そこまでに重ねられた言葉と、この後、擱筆までに書かれるであろう言葉をつなぐものとして書きつけられる。私は文章を書きながら、つねにそれまで書いてきたすべての文章のことを考え、検討しつづけている。そして句読点や語彙の運用、語順、漢字の閉じ開き、そういう些細なことが気になって、原稿用紙をばさばさめくり、ワードファイルを遡って、読点をひとつ消したりする。そんなやりかたをしていると、やたらと時間がかかる。
誰だったか、小説家の対談かインタビューで、書くとき、頭のなかにすでに作品ができあがっていて、自分はそれをただ、ほかの人にも読めるように書き写しているだけで、だから筆が速いのはあたりまえのことだ、と、いま考えていて思いだしたのだが海堂尊が言っていた。私にはできない。古井由吉は自分が小説を書くことを、翻訳、という言葉で表現していた。自分が作品を創作しているというより、ただ自分のなかを通過させているだけだ、と。また別の小説家は、自分で創作しているというか、作品という確固たるものがあり、それを読むように書いているのだ、と言っていた。
読むように書く? でもとうぜん、人は読むより書く速度が遅く、ほんとうに読むようには書けないし、あんなふうに言ってた彼らもきっとそれは見栄か韜晦みたいなもので、実のところ、自分が創作してないなんて思ってなかったんじゃないか。
でも、読むように書く、ことはできなくとも、読まれるように書く、ことなら、できるのではないか。作品が読まれているときの、読者に流れる時間の経過と、文章中での時間の速度を一致させる。そうすることで、当然この文章を書き終えられたあとで読む読者に、作者である私が、リアルタイムではたらきかけることができるのではないか。
そういうことを試みていそうな小説家、その作品を分析していそうな批評家の名前がいくつか思い浮かぶほどに、きっと新しい試みではないのだが、私はやったことがない。だから、一年かけて、毎日ちょっとずつやってみようと思った。
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